元寇防塁の跡 生きの松原

f:id:takesudare:20190922183914j:plain

能古の島

天神から西へ車で20~30分くらいで白砂青松の浜に着く。博多湾を望み、沖には能古島(のこのしま)が見える。海にヨットがいくつか帆走している。すぐ右手に小戸のヨットハーバーがある。

写真は生(い)きの松原に残る「石築地」だ。今から745年前、蒙古から九州北部沿岸が2度にわたり、襲撃をうけひどい目にあった。蒙古襲来である。蒙古帝国は、国号を「元」と改める。1度目を文永の役、2度目を弘安の役という。この石垣は当時から「石築地」とよばれ、今は「元寇防塁」というが、この命名は昭和に入って九州大学の医学部教授の中山平次郎先生によるそうだ。文永の役の直後から、防衛のため、石垣が、高さ2m前後、汀線から50m内外のラインに沿って博多湾に、西は今津から東は香椎まで約20km延々と築かれた。

f:id:takesudare:20190922184005j:plain

防塁前の博多湾

f:id:takesudare:20190922183322j:plain

元寇防塁跡

この工事は半年あまりで完成したらしいが、九州各国の御家人や寺社や荘園の武士に田一反(10アール)につき一寸(約3センチ)、つまり百町(約100ヘクタール)の田地をもつ領主ならば百尺(約30m)の長さを負担させられた。

「文永の役」では蒙古軍と高麗軍の連合軍2万5000の兵と900艘の軍船で襲来した。壱岐では島民の大部分が惨殺され、捕らわれた女は掌に剣で穴をあけられ、その穴に綱を通して数珠つなぎとされ、船に吊り下げられたという。つい最近まで玄界灘沿岸各地には泣き叫ぶ子供に手をやいた時、「ムクリ、コクリがくるぞ」と親が言えば、どんな子供も泣き止んだという話が伝わっていた。自分も小さいころ聞いたことがある。ムクリはモンゴル、コクリは高麗のことである。

蒙古軍は今津から、高麗軍は百道の海岸から上陸した。祖原山を本陣とし、博多の町に攻め込んだ。蒙古軍は「てつはう(鉄砲)」を使用した。日本軍は火薬を知らなかった。香椎方面より上陸した一隊は日本軍を挟み撃ちにして打ち破り、箱崎宮をはじめ博多の町を焼き尽くした。

f:id:takesudare:20190922183609j:plain

防塁の跡

それから7年後、「弘安の役」といわれる元・高麗の連合軍14万を東路・江南の2軍にわけ、対馬・壱岐を侵略し、博多湾に来攻した。

高麗の忠烈王は自身に東征の命を受けるべくモンゴルに出向き元の王、世祖に拝謁した。世祖は属国である高麗に又900艘の軍船の建造を命じた。東路軍の一部が対馬に上陸した。上陸したのは高麗兵だった。博多湾岸は石築地があったため日本の防衛に一助となった。

二度の戦役にも外敵を防ぐことができたことは本当に幸運だった。

元寇の古戦場跡 東公園 

f:id:takesudare:20190903195748j:plain

日蓮上人銅像

 元寇の古戦場、博多湾口の千代の松原の、亀山上皇銅像と日蓮上人銅像は明治37年に約17年の歳月を費やして建立された。東公園はこの千代の松原の中に明治12年(1879)に開かれた公園である。亀山上皇像が高さ21.5m。日蓮上人像が21.2m。この若干の差は皇室への敬意だそうだ。亀山上皇は烏帽子をかぶり、日蓮上人は坊主頭である。

f:id:takesudare:20190903195920j:plain

亀山上皇銅像

亀山上皇銅像は当初は時の執権北条時宗像の予定であったが亀山上皇に変更になった。今から750年前の元寇時に上皇が身をもって国難に代わらんと、伊勢神宮などに祈願されたのを記念するためである。台座に「敵国降伏」の文字が力強く見える。

f:id:takesudare:20190903200016j:plain

敵国降伏

上皇像の作者は福岡市出身の彫刻家で巨匠山崎朝雲。高村光雲の高弟である。
元寇記念像の発案者は福岡警察署長であった湯地丈夫で「国防意識の要請と元寇で亡くなった武士の顕彰」が急務であるとして、全国を回り講演活動と募金活動を行った。筆舌に尽くしがたい苦労の末、除幕式は日ロ戦争の真っ最中の明治37年12月24日。湯地が活動を始めて16年の歳月が過ぎていた。とのことだ。(読売新聞2005.12.29)

日蓮上人銅像建立の主唱者は本佛寺の住職で当時日蓮宗きっての名僧といわれた佐野日管である。除幕式は亀山上皇の除幕式の前月明治37年11月8日(1904)。

f:id:takesudare:20190903200259j:plain

元寇資料館

公園入り口のそばに元寇資料館がある。モンゴルの鎧、兜や元寇の戦いの絵、小島与一の人形などが展示されている。この資料館は日蓮聖人銅像護持教会の施設である。入り口が閉まっていた。張り紙に予約制とある。教会の電話番号が見えたので、厚かましく思い切って電話したら係の人が来て開けてくれた。入館料大人300円。

元寇の跡 祖原山を訪ねて

 

豪雨がすぎてやっと晴れ間が見えた8月の最後の日。久しぶりに登ってみた。山全体が祖原公園となってきれいに整備されていたが、前より草茫々で面影は変わっていた。

f:id:takesudare:20190901152459j:plain

祖原山の登り口

f:id:takesudare:20190901152535j:plain

高さ33m 福岡タワーのほぼ南の方角の住宅街のどまん中にあって不思議な感じ。福岡市の低山で低いほうから数えて6番目。
文永の役の際、蒙古軍がここに本陣を構えた。当時は福岡の町が一望できたはずだ。
山頂には博多湾を望んで「元寇祖原戦跡」の碑が建っている。

f:id:takesudare:20190901152417j:plain

山頂にて

 

古賀政男記念館・生家に立ち寄り


盆前の12日,柳川にうなぎを食べに行く途中、古賀政男記念館に寄ってみた。
1級河川 筑後川の下流域の左岸の大川市の208号線沿いにあった。

f:id:takesudare:20190815151103j:plain

古賀政男記念館

福岡から三瀬峠を越えて、佐賀市に入る。
208号線は佐賀市を起点に、筑後川を渡り大川市、柳川市を経て有明海沿岸道路に出る。

古賀政男記念館・生家は柳川市に入るすぐ前の大川市三丸にある。同地に生家も昔の面影を残したまま保存されていた。

f:id:takesudare:20190815151056j:plain

古賀政男・生家


「昭和の日本人の心にうるおいを与えた名作を中心に日本歌謡を彩った数々の資料を展示」と説明。
「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」「湯の町エレジー」「柔」などの古賀メロデイ・・・昭和の気分を満喫!!

愛用のギターとギターケースが印象に残った。

f:id:takesudare:20190815151101j:plain

古賀政男記念像

明治37年生、昭和53年没 享年73歳。

古賀政男生家と柳川市に保存の北原白秋の生家は約1里(4キロm)の地にある。