元寇防塁の跡 生きの松原

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能古の島

天神から西へ車で20~30分くらいで白砂青松の浜に着く。博多湾を望み、沖には能古島(のこのしま)が見える。海にヨットがいくつか帆走している。すぐ右手に小戸のヨットハーバーがある。

写真は生(い)きの松原に残る「石築地」だ。今から745年前、蒙古から九州北部沿岸が2度にわたり、襲撃をうけひどい目にあった。蒙古襲来である。蒙古帝国は、国号を「元」と改める。1度目を文永の役、2度目を弘安の役という。この石垣は当時から「石築地」とよばれ、今は「元寇防塁」というが、この命名は昭和に入って九州大学の医学部教授の中山平次郎先生によるそうだ。文永の役の直後から、防衛のため、石垣が、高さ2m前後、汀線から50m内外のラインに沿って博多湾に、西は今津から東は香椎まで約20km延々と築かれた。

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防塁前の博多湾

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元寇防塁跡

この工事は半年あまりで完成したらしいが、九州各国の御家人や寺社や荘園の武士に田一反(10アール)につき一寸(約3センチ)、つまり百町(約100ヘクタール)の田地をもつ領主ならば百尺(約30m)の長さを負担させられた。

「文永の役」では蒙古軍と高麗軍の連合軍2万5000の兵と900艘の軍船で襲来した。壱岐では島民の大部分が惨殺され、捕らわれた女は掌に剣で穴をあけられ、その穴に綱を通して数珠つなぎとされ、船に吊り下げられたという。つい最近まで玄界灘沿岸各地には泣き叫ぶ子供に手をやいた時、「ムクリ、コクリがくるぞ」と親が言えば、どんな子供も泣き止んだという話が伝わっていた。自分も小さいころ聞いたことがある。ムクリはモンゴル、コクリは高麗のことである。

蒙古軍は今津から、高麗軍は百道の海岸から上陸した。祖原山を本陣とし、博多の町に攻め込んだ。蒙古軍は「てつはう(鉄砲)」を使用した。日本軍は火薬を知らなかった。香椎方面より上陸した一隊は日本軍を挟み撃ちにして打ち破り、箱崎宮をはじめ博多の町を焼き尽くした。

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防塁の跡

それから7年後、「弘安の役」といわれる元・高麗の連合軍14万を東路・江南の2軍にわけ、対馬・壱岐を侵略し、博多湾に来攻した。

高麗の忠烈王は自身に東征の命を受けるべくモンゴルに出向き元の王、世祖に拝謁した。世祖は属国である高麗に又900艘の軍船の建造を命じた。東路軍の一部が対馬に上陸した。上陸したのは高麗兵だった。博多湾岸は石築地があったため日本の防衛に一助となった。

二度の戦役にも外敵を防ぐことができたことは本当に幸運だった。